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元亀2年(1571)頃33歳頃 |
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能登の絵仏師、京都へ
等伯は、戦国大名畠山(はたけやま)家家臣奥村家の子として生まれましたが、染色業を営む長谷川家に養子に入りました。養祖父、養父に絵の手ほどきを受けた等伯は、信春(のぶはる)と名乗り、日蓮宗寺院に関わる仏画を多く描きました。戦乱の時代の中で、画業を続けることが困難となった等伯は、父母を亡くしたことを契機に、30代という決して若くはない年齢で、京都に新たな活躍の場を夢見て上洛しました。 |
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左:
重要文化財
三十番神図(さんじゅうばんじんず)
長谷川等伯(信春)筆
永禄9年(1566)
富山(高岡市)・大法寺(だいほうじ)蔵
信春時代に描いた仏画のなかでも、とりわけて華麗な色彩が施されています。
大法寺には本作品も含め3幅の仏画が伝わっています。どれも、丹念に細かく描写されており、信春時代の日蓮宗関連の画業の作風が色濃くうかがえます。
右:
重要文化財
日堯上人像(にちぎょうしょうにんぞう)
長谷川等伯(信春)筆
元亀3年(1572)
京都・本法寺(ほんぽうじ)蔵
本法寺の第8世日堯上人が説法する姿を描いています。この作品の署名によって等伯と信春という絵師が同一人物であると確認されました。
等伯は、生家の菩提寺の本山である本法寺の伝手(つて)によって上洛し、京都や堺で活動しました。
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花鳥図屏風(かちょうずびょうぶ)
長谷川等伯(信春)筆
個人蔵
本展覧会にかかわる作品調査によって、等伯の作品であることがわかりました。金碧画(きんぺきが)の花鳥図で、松や藤の花、滝の流れなどが優美に描かれています。松の樹皮や枝ぶり、鳥の描写などから等伯が「信春」と名乗っていた40歳前後の作品とみることができます。智積院の金碧障壁画を描く前から金碧画制作の実績を積んでいたことを示す重要な作品です。
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| 天正17年(1589)51歳 |
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狩野一門の牙城へ−金毛閣(きんもうかく)天井画
40代の等伯の京都での活動がどんなものであったか、ほとんどわかっていません。「等伯」の名が最初にあらわれるのは、京都の名刹、大徳寺です。大徳寺では室町時代以来、狩野一族の多くの絵師が障壁画を制作しており、まさに狩野一門の牙城でした。
天正17年(1589)等伯51歳のとき、豊臣秀吉の茶頭・千利休は、大徳寺三門の増築部分を寄進します。その金毛閣二階の天井と柱に等伯は筆を揮ったのです。京都画壇に高らかに等伯の名を知らしめる第一歩でした。
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一世一代の賭け−三玄院襖絵
天正17年(1589)、等伯は大徳寺の塔頭(たっちゅう、歴代住職の隠居所となる子院)、三玄院の襖絵に山水図を揮毫(きごう)しました。実は、この襖絵揮毫には、驚嘆すべき等伯のエピソードが残っています。
等伯は、同院住職の春屋宗園(しゅんおくそうえん)に、法殿に襖絵を描くことを切望していたのですが許されませんでした。そこである日、住職が留守と知った等伯は無断で部屋に駆け上がり、一気呵成に見事な山水図を描ききってしまったといいます。
一見、無謀ともいえるこの行動が吉と出て、南禅寺、妙心寺など大寺院の障壁画制作につながっていきました。
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重要文化財
山水図襖(さんすいずふすま)
長谷川等伯筆
天正17年(1589)
京都・圓徳院(えんとくいん)蔵
もとは大徳寺三玄院(さんげんいん)の室内を飾っていた障壁画です。等伯は同年に大徳寺三門−金毛閣(きんもうかく)の天井画、柱絵も手掛けています。等伯が京都画壇に確かな地盤を築きはじめたころの作品です。
中国名画に学び、自らのスタイルを模索しつつ描いた樹木や空気の描写には、後の代表作「松林図屏風」につながる水墨表現の萌芽がみられます。桐紋(きりもん)を散らした唐紙(からかみ)に描かれた珍しい水墨画です。
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天正18年(1590)
52歳
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永徳との対決−御所の障壁画
狩野永徳は名門狩野家の長子に生まれ、幼くしてその才能を開花させました。等伯より4歳年少の画壇の覇者は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、さらに宮中の貴族にも密接にかかわって、さまざまな殿舎の障壁画に筆を揮(と)っていました。一方の等伯は、30代で遅咲きの上洛を果たし、大寺院の住職、町衆や武将など京都の有力者たちと交わり、画業の修養を積んでいました。
この二人が直接対決したのは、天正18年(1590)、御所造営に際して対屋(たいのや)の障壁画制作を巡ってのことでした。一度は等伯の運動が功を奏して襖絵揮毫の受注を得ましたが、永徳とその子、光信が宮中に申し出たことで阻止されてしまいます。等伯一派の勢力が狩野一門に伯仲(はくちゅう)しつつあった証となる事件でした。
この後、等伯は秀吉の子鶴松の菩提寺で、京都第一の寺といわれた祥雲寺(現在の智積院)の障壁画制作という一大事業を獲得しました。
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国宝
上:楓図壁貼付(かえでずかべはりつけ)
下:松に秋草図屏風(まつにあきくさずびょうぶ)
長谷川等伯筆
文禄元年(1592)頃
京都・智積院(ちしゃくいん)蔵
天正19年(1591)、3歳で夭折した豊臣秀吉の長男、鶴松(つるまつ)の菩提を弔うために建立された京都の祥雲禅寺に描かれた障壁画。70pを越える太い幹の楓は、両腕を広げるように、雄雄しい姿で描かれ、紅葉や木犀(もくせい)、鶏頭、萩、菊の草木は、幼くして亡くなった鶴松を包み込むように優しく画面を彩ります。
ライバル狩野永徳(かのうえいとく)が創り上げた画面から飛び出さんばかりに巨木などの対象を描く「大画様式(たいがようしき)」を意識しながら、狩野一門の作品にはみられない自然描写をみせ、なおかつ叙情性を備えた長谷川一門独自の美的特質が、みる者の目を奪います。
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| 慶長4年(1599)61歳 |
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一族への祈り−大涅槃図
京都・本法寺の日通上人と等伯との関係は、篤(あつ)く永きに渡るものでした。等伯は、よき理解者であった日通上人に強く信頼をよせ、慶長4年(1599)に大涅槃図(仏涅槃図)を寄進します。さら慶長10年(1605)には、本法寺の客殿、仁王門の建立施主となるほど、本法寺には多くのものを寄進しました。等伯は本法寺の大檀越(だいだんおつ)となり、京都の有力な町衆となりました。
大涅槃図の裏面には日蓮聖人以下の祖師たちの名、本法寺開山の日親上人以下の歴代住職、等伯の祖父母や養父母、そして将来の長谷川一門を担うべく期待をよせていた長男久蔵(きゅうぞう、26歳の若さで先立った)たちの供養銘が記されています。等伯の篤い信仰と一族への祈りが込められた作品といえます。
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重要文化財
仏涅槃図(ぶつねはんず)
長谷川等伯筆
慶長4年(1599)
京都・本法寺蔵
釈迦(ブッタ)の入滅の様子を描いています。
華やかな描き表装を含めれば高さ10mにおよぶこの大涅槃図は、完成時に宮中で披露された後、等伯によって本法寺に寄進されました。首を上下左右にゆっくりと振らなければ全貌をみることはできません。その迫力はみる者を圧倒します。
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自己主張−自雪舟五代(せっしゅうよりごだい)
信春時代に等伯が描いた仏画には「長谷川信春筆」の署名が書き込まれています。この時代、寺院に注文された仏画に絵師が署名を入れることは、非常に稀なことでした。
また後年、等伯は室町時代に活躍した雪舟の正当な後継者として、自らの作品に「自雪舟五代 長谷川法眼等伯筆」と書き込んでいます。当時、大名たちに雪舟画が、たいへんもてはやされていたのです。
当時の絵師は、注文主の依頼のままに絵を描いていましたが、等伯は絵筆で自己表現することに加え、さらに強い自意識をサインの文字であらわしています。
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重要文化財
日通上人像(にっつうしょうにんぞう)
長谷川等伯筆
慶長13年(1608)
京都・本法寺蔵
本法寺中興の祖といわれる第10世住職の日通上人の死に際し、等伯が70歳のときに描いた肖像画です。等伯とは長きにわたり交友がありました。控えめな色彩、力強い描線は、上人の清新な人柄までも写し取ったかのようです。画面からは、上人を失った等伯の悲しみを感じることができます。
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慶長15年(1610)
72歳
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新天地・江戸への旅
豊臣の時代が去り、天下は徳川家康のものとなろうとしていました。等伯は新たなパトロンを獲得するため、高齢をおして二男の宗宅を伴い、江戸へ下向しましたが、途中で病をえて、江戸到着後、二日めに72歳で等伯は亡くなりました。その翌年に宗宅も亡くなり、画壇のなかでの長谷川一門の命脈は尽きてしまいました。
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